心理臨床と身体」
ー 身心統合セラピーにむけて ー
小原 仁
「心理臨床におけるからだ 〜身心一如からの視座〜」朱鷲書房
(朱鷲書房のご厚意により引用させて頂きました)
1 はじめに
私の日々の臨床は身体へのかかわり無しにはありえない。「身心統合セラピー」、更には「身心超越セラピー」に向かっている。(注①)本稿では、身心をどのように捉え、どのように関わっていくかということに関する現時点での私の視座について整理してみたい。整理に当たって、ケン・ウィルバー、ウィルヘルム・ライヒ、アレクサンダー・ローエン、デイビッド・ボアデラに限定し、論争的というよりも、今後の礎石となるものを拾い出していくという観点で述べていく。(注②)
まずは、私の方向性を明確にするために臨床の背景について若干述べておく。私はこの国の分類の仕方では、「折衷派」と言われる位置にいるのではないかと自認している。現在は、ボアデラによって創始されたバイオシンセシスの認定セラピストとして活動しているが、日々の臨床を支えているのは、私のこれまでの人生経験であり、臨床経験であり、それをベースにこれまで体験的に学んできた様々な学派の理論と実践の私的に再構築されたものである。その意味で、私のセラピーはコハラ・ワークと言う他はないのかもしれない。
私のセラピー体験は、17歳のときに出会った禅の瞑想、ヨガ、自律訓練法、森田療法から始まった。森田療法は、白隠禅をベースとしており、禅について深く学んでいるわけではないが、その体験的な影響は大きい。森田療法のキーワードである「あるがまま」という考え方、禅の「調身・調息・調心」、すなわち「身を調え」、「息(呼吸)を調え」、そうして「心を調える」という考え方は、私を身体志向(身心統合)的セラピーへ、トランスパーソナル志向(身心超越)的セラピーの道へと方向づけた。
その後、様々な理論や個人およびグループ・ワークの体験を経過して、現在は私の造語である「ホロノダイナミック・バランシング」をキーワードとして、全体性、力動性、バランシング・プロセスを尊重しつつ、ソマトサイキックなアプローチとサイコソマティックなアプローチを適宜組み合わせ、日々の個人ならびにグループの臨床に取り組んでいる。
2 身心統合セラピー
意識のスペクトル論と身心統合セラピー
ウィルバーは、意識を電磁波のスペクトルになぞらえて、意識の様々な帯域を「意識のスペクトル」として、階層構造的な全体像において描きだした(図① Wilber 1977,吉福・菅 1985)。
まずは、この概念図に基づいて身心統合セラピーの位置づけを明確にしておきたい。ウィルバーは、意識を電磁波のスペクトルになぞらえて、意識の様々な帯域を「意識のスペクトル」として、階層構造的な全体像において描きだした(図① Wilber 1977,吉福・菅 1985)。
まずは、この概念図に基づいて身心統合セラピーの位置づけを明確にしておきたい。
彼は、『意識のスペクトル』の前半において「意識の進化(Evolution)」を、後半において「意識の深化(Involution)」を展望している。「進化」は自我の生成過程であり、前個的レベルの意識がそれぞれの二元論を高次化していくことによって、全一性としての自己が「仮面」と呼ばれる自我の一局面へと狭小化されていくプロセスであり、アイデンティティーを断片化し、狭めていくプロセスである。他方「深化」は、非自己化された自己を取り戻し、一つ一つの二元論を超越し、全一性としての自己を再形成していくプロセスであり、狭小化され、断片化されたアイデンティティーを拡大し、全一性へと移行していくプロセスである。言い換えれば、前個的レベルから個的レベルへ、個的レベルから超個的レベルへの移行のプロセスである。あるいは、無境界のレベルから境界の形成へ、境界のレベルから超境界のレベルへの移行のプロセスである。
セラピーは、この意識の進化・深化のプロセスへの援助、健全な境界の形成と超越への援助であり、それを導く従来の心理学はスペクトルのレベルによって以下の三つの方向性を持ったものに分類される。
① 仮面と影の統合、自我の統合には精神分析、交流分析、認知療法などの「自我心理学―自我レベルのセラピー」。
②自我と身体の統合、身心の統合にはバイオエナジェティックス、ゲシュタルト・セラピー、フォーカシングなどの「人間性心理学―実存(ケンタウロス)レベルのセラピー」。
③ 個としての有機体の境界の超越は、サイコシンセシス、ユング分析などの「トランスパーソナル心理学―トラスパーソナル(超個)レベルのセラピー」。
従来の心理学の上記三領域に加えて、更に新しい領域として、有機体と環境の統合のレベルにおいて「統一意識レベルのセラピー」が提起されている。言うまでもなく、このウィルバーの分類から言えば、身心統合セラピーは、人間性心理学―実存(ケンタウロス)レベルのセラピーに位置づけられ、未完の仮面と影の統合を果たしながら、自我と身体の統合に向かい、あるいは、前個的レベルから個的レベルへの自己形成を援助しながら、有機体と環境の統合へと道を開くことである(Wilber 1977,吉福・菅 1985, Wilber 1979,吉福1986) 。
実際のセラピーにおいては、例えば足でマットを蹴りながら怒りが表現されるプロセスが浮上すると、影になっていた怒りの感情の統合のプロセスになっていくと同時に、怒りを表現するという身体動作が統合されていく身心統合のプロセスともなる。かつまた、それが契機となり未統合の様々な感情、身体運動、身体感覚、記憶などが統合され、身心の全一性の体験へと深まり、更に有機体の境界が超越され、環境との部分的な統合のプロセスに入り、トランスパーソナルな体験へと至る場合もある。
このように、理論的には意識のスペクトルとしてそれぞれの意識レベルを区別することは可能かもしれないが、実際のセラピーにおいては全レベルが経過的に、重層的にプロセスの中に現れてくる場合があるので、セラピストは全レベルの基本的な知識とプロセスに対応できるスキルを自らの体験を通じて熟練しておく必要がある。
身心の二元性と一元性
身心にアプローチしていく場合、セラピストがいかなる身心観に立脚しているかを対自化しておく必要がある。ウィルバーの言う第一の二元論から第四の二元論に至るまでことごとく二元論を生きている私達にとっては、身心二元論はむしろ常識である。哲学的にはデカルトがその祖を築いたと言われるが、そしてウィルバーの言う「生物社会的帯域」の問題であるとも言えるが、なによりも私たちの日々営まれる生活が紡ぎ出している観念であると言えよう。
他方で日常をつぶさに観察してみれば、悲しみにゆがむ顔、恐怖におののき見開かれた目、怒りに震える腕、喜びで小躍りする身体、こんな身心一体の姿をしばしば目にする。また、頭にくる、ムカつく、断腸の思い、腹が立つ、など身体部位の名称を使って感情を表現することもたびたび耳にする。にもかかわらず、心に問題を抱えて来る人を来る日も来る日もじっと椅子に座らせて話しを聞くだけという心理療法があるとすれば、不自然でもあれば不思議な感じもする。
心身医学が普及した今日、完全な身心分離型の二元論を唱える人はほとんど皆無であろうが、身心の分離を前提にした身心相関型の二元論が大勢を占めるのではないかと思われる。私の視座は、身心の二元性と一元性を共に受け入れるところにある。これは、体験的には先に述べた瞑想体験に根ざし、理論的にはライヒの身心の二元性と一元性を統合する弁証法的概念図に基づいている。この図式はバイオエナジェティックスの創始者であるローエンにも発展的に継承されている。(図② Lowen 1975,菅・国永 1994)
図における一番下の部分はエネルギーの源泉で「コア」と呼ばれる。そして上に向かう一本の線の部分で身心の同一性、一元性、東洋的な表現をすれば「心身一如」の部分が表現される。一本の線は途中から二本に別れ向き合う。この部分で身心の二元性が表現されている。この図式は、エネルギー・プロセスを表現しており、ライヒによれば、生命エネルギー、後になって「オルゴン・エネルギー」と呼ばれるようになったが、身体と心は根源的なエネルギーの異なった現われとして捕らえられている。
この身心の二元性と一元性の結節点でのセラピーが身心統合セラピー、いわゆる実存(ケンタウロス)レベルのセラピーであり、この身心の同一性のところからいくばくかのプロセスをトランスパーソナル・レベルのセラピーとして、更にコアのセラピーを統一意識レベルのセラピーとしてこの概念図に位置づけられるかもしれない。
この図式は非常に現実的であり、実践的であるように思われる。二元性を認めることで、自我レベルのサイコセラピーと機械的なアプローチを取るボディワーク、身体的側面をワークの対象としない心理療法と心理的側面をワークの対象としない身体療法をともに相対的に自立したものとしてその効果を認め評価することができる。そしてこれは実際的であり、現実的に効果を発揮している。
ただし、一定の限界を超えると、二元性の相対性ゆえに、ワークは低迷する。例えば、機械的なアプローチによるボディワークでは対処できなくなる。慢性的な筋緊張は、多くの場合、身心統合的なワークをしなければ、筋肉への機械的なボディワークのみでは緊張は再び帰ってくることになる。筋防衛体制(筋肉の鎧)の必要性が残る限り、防衛の必要な抑圧されたエネルギーが解放されない限り、それは再形成されることになる。これはまた心理的なワークにも言える。強固な筋防衛体制が形成されている場合、この筋肉の鎧を解除していかなければワークは深まらない。例えば、横隔膜の慢性的な緊張によって呼吸が過度に抑制されている場合、呼吸の解放のワークをすることで心理的なエネルギーの解放のワークは功を奏する。その意味で、身心統合セラピーにおいては、ケース・バイ・ケースで、ソマトサイキックなアプローチになったりサイコソマティックなアプローチになったりしながら、身心の二元性と一元性を見据えながらワークをしていくことになる。
身心の機能的同一性と筋肉の鎧
ライヒの身心観についてみてきたわけであるが、更にライヒは、身体心理学、身体心理療法、心身医学の父とも言われるように、身心にアプローチする基本的な視座を多々提起しているが、ここでは身心の機能的同一性と筋肉の鎧について述べておこう(Reich,1933,小此木,1966)。
ライヒは、「性格の鎧」と「筋肉の鎧」という概念とそれらの機能的同一性を明らかにした。性格には習慣的な防衛戦略パターンが組み込まれているわけであるが、ライヒはそれに特定の筋肉の緊張パターンである筋肉の鎧を結びつけた。心理的鎧と身体的鎧とは機能的に同一だとみなした。先述した二元性と一元性の図式に見られるように、心理的防衛と身体的防衛、あるいは自我防衛と筋防衛はそれぞれの形態をとりながら同一の機能を果たす。ここからセラピーは、身体へ直接的に働きかけ、身体的・情緒的な拘束衣になっている筋肉の鎧を緩めることによって、抑圧されている感情を解放し、自由なエネルギーの流れを解放することが可能になる。言語的なチャンネルを中心とするセラピーから、表情、声の調子、姿勢、身振り、呼吸といった非言語的なチャンネル、発声、身体運動、筋肉への直接的アプローチなどのチャンネルから解放のプロセスを導くことが可能になった。
身心の機能的同一性に立脚して、従来の心理療法のみの精神分析から身心の両面にワークする「性格分析的ヴェジット・セラピー(vegetotherapy)」が誕生した。当時ドイツでは、自律神経は植物神経と呼ばれていたために、ライヒは自らのセラピーをこのように呼んだ。ライヒのワークを受けていたローエンは、「ヴェジット・セラピーとは、呼吸その他の身体的テクニックを通して、不随意系の中心(自律神経系の中枢)を活性化し、『無意識の』エネルギーを解き放つことによって感情の流れをよくするものである」(Lowen 1975,菅・国永 1994;8)と言った。身体の不随意系と随意系のポラリティのバランシング・ワークはローエンにも引き継がれている。
グラウンディング
ローエンは、ライヒの身心を統合的に理解するエネルギー論的な観点を継承し、独自の観点でバイオエナジェティックスを創始した。ここでは、彼の多様な業績のなかから、彼が「独自の概念」と呼んでいる「グラウンディング」に論点を絞りたい。
先に、禅の調身・調息・調心について述べたが、ローエンにとってグラウンディングのワークは、エネルギーの流れをブロックする慢性的筋緊張の解除のワークなど数ある調身の中で代表的なものである。ライヒも重視していた呼吸のワークは調息に対応するが、ローエンにおいてはスツールを開発するなど更に発展させていったワークである。彼はこれら調身・調息のワークと同様、調心のワークにもフロイトの精神分析、ライヒの性格分析を発展させながら心と身体にバランスよくエネルギーを割いた。行動パターンの心理的力学と身体的力学を統合的に理解する性格類型論をエネルギー論的な観点、身体的側面、心理学的相関性、生育歴的要素などを統合して独自に構築し、性格ワークの基礎にした。
ローエンは、グラウンディングを「バイオエナジェティックス・ワークでの第一目的」、「試金石の一つ」(Lowen 1975,菅・国永 1994;34,238)あるいは「グラウンディングがないというのは、有機体レベルでは、病理の指標とみなされる」(Lowen 1972),中川・国永,1995;65)とか言い、グラウンディングという概念を多様な言葉で説明しているが、それは心理学的な比喩ではなく、生体エネルギー論の概念であることをまずは押えておく必要がある。生命体は、エネルギーのチャージとディスチャージという基本的なプロセスのダイナミックなバランシング・プロセスである。上半身は食物、酸素、感覚刺激などを通じてチャージング・プロセスと、下半身は運動や性器を通じてディスチャージング・プロセスと密接に関連している。
チャージング・プロセスがスムーズに流れれば活力に満ち溢れる。何らかのブロックがあればエネルギー不足になり活力がなくなる。ディスチャージング・プロセスがスムーズに流れれば、快感として体験される。日常的には、自然な身体の動き、素直な感情表現、解放的なセックスなどで体験される。何らかのブロックがあれば、エネルギーは鬱積状態になり、苦痛に感じられる。だが、苦痛が筋肉の鎧化によって防衛されると苦痛の感覚は麻痺する。往々にしてこの筋肉の硬化の感覚すら失われ、感じるのは「人生に喜びがない」ということだけになる。
すると、この退屈な人生からの逃亡生活が始まる。性的な興奮、馬鹿騒ぎ、富、名声、成功、地位、理想化された幸せな家庭、精神世界の絶対的な楽園、等々を求める衝動に駆られ、現実から離れ、幻想が生み出した理想郷に向けて走り出す。もっと、もっとと駆り立てる。ついには幻想が崩れ落ち、行く果ては抑うつ地獄ということになる。人生に喜びがなくなれば、人生の意味が問われる。意味をいくら観念的にでっち上げてみても、人生の喜びが取り戻されなければ、畢竟虚しさに回帰し、死の衝動が頭を持ち上げてくる。
エネルギー論的にみれば人生は、エネルギーのチャージ(興奮)→ディスチャージ(快楽)→さらなるチャージ(さらなる興奮)→さらなるディスチャージ(さらなる快楽)、という連鎖になる。そしてこのディスチャージング・プロセスを開くこと、下方へのエネルギーの回路を開くことこそグラウンディング・ワークに他ならない。具体的には、「地に足をつける」、「大地に根づく」、「固い基盤に人を降ろす」、「地面との感情的ないしエネルギー的な接触を確立する」、「自分が何者であるか知っている」、「自分がどこに立っているか知っている」、「自己の存在の根本実在に触れること」、「現実に触れている」、「身体、セクシュアリティとつながっている」、「喜び、安心感とつながっている」、「肚が据わっている」、「人々とつながっている」(Lowen 1975,菅・国永 1994;233, Lowen 1972,中川・国永,1995;51, Lowen 1977,石川・野田 1985;12, Lowen 1990,村本・国永1994;153)、・・・などが言われている。人を足や脚の中に連れ戻すことによって、幻想から離れ、現実につながるということであろう。そして、幻想から現実への道こそ解放の道である。
付言しておけば、もちろんここではスピリチュアリティも現実である。ローエンは言う。「足が大地から離れると、スピリチュアリティは生命のない抽象になってしまう」(Lowen 1990,村本・国永1994;152)と。感情やスピリチュアリティの源である身体から分離するとき、スピリチュアリティも生きることの苦痛や空虚を防衛するたんなる幻想になる。幻想はいずれ壊れ、苦痛と空虚に回帰する。また、「セクシュアリティと切り離されたスピリチュアリティはただの抽象概念にすぎず、また、セクシュアリティもスピリチュアリティから分断されれば単なる肉体活動に過ぎない。」、「セクシュアルである以上にスピリチュアルになることはできない。」(Lowen 1990,村本・国永1994;152)とも言っている。ローエンは、スピリチュアリティとセクシュアリティを、スピリチュアリティと身体を二元論的に分断するよく見られる発想から免れている。「生は性にして聖なり」というが、「生」は「性」と「聖」を表裏とするコインのようなものかもしれない。ローエンは、ライヒの身心を統合的に理解するエネルギー論的な観点を継承し、独自の観点でバイオエナジェティックスを創始した。ここでは、彼の多様な業績のなかから、彼が「独自の概念」と呼んでいる「グラウンディング」に論点を絞りたい。
先に、禅の調身・調息・調心について述べたが、ローエンにとってグラウンディングのワークは、エネルギーの流れをブロックする慢性的筋緊張の解除のワークなど数ある調身の中で代表的なものである。ライヒも重視していた呼吸のワークは調息に対応するが、ローエンにおいてはスツールを開発するなど更に発展させていったワークである。彼はこれら調身・調息のワークと同様、調心のワークにもフロイトの精神分析、ライヒの性格分析を発展させながら心と身体にバランスよくエネルギーを割いた。行動パターンの心理的力学と身体的力学を統合的に理解する性格類型論をエネルギー論的な観点、身体的側面、心理学的相関性、生育歴的要素などを統合して独自に構築し、性格ワークの基礎にした。
ローエンは、グラウンディングを「バイオエナジェティックス・ワークでの第一目的」、「試金石の一つ」(Lowen 1975,菅・国永 1994;34,238)あるいは「グラウンディングがないというのは、有機体レベルでは、病理の指標とみなされる」(Lowen 1972),中川・国永,1995;65)とか言い、グラウンディングという概念を多様な言葉で説明しているが、それは心理学的な比喩ではなく、生体エネルギー論の概念であることをまずは押えておく必要がある。生命体は、エネルギーのチャージとディスチャージという基本的なプロセスのダイナミックなバランシング・プロセスである。上半身は食物、酸素、感覚刺激などを通じてチャージング・プロセスと、下半身は運動や性器を通じてディスチャージング・プロセスと密接に関連している。
チャージング・プロセスがスムーズに流れれば活力に満ち溢れる。何らかのブロックがあればエネルギー不足になり活力がなくなる。ディスチャージング・プロセスがスムーズに流れれば、快感として体験される。日常的には、自然な身体の動き、素直な感情表現、解放的なセックスなどで体験される。何らかのブロックがあれば、エネルギーは鬱積状態になり、苦痛に感じられる。だが、苦痛が筋肉の鎧化によって防衛されると苦痛の感覚は麻痺する。往々にしてこの筋肉の硬化の感覚すら失われ、感じるのは「人生に喜びがない」ということだけになる。
すると、この退屈な人生からの逃亡生活が始まる。性的な興奮、馬鹿騒ぎ、富、名声、成功、地位、理想化された幸せな家庭、精神世界の絶対的な楽園、等々を求める衝動に駆られ、現実から離れ、幻想が生み出した理想郷に向けて走り出す。もっと、もっとと駆り立てる。ついには幻想が崩れ落ち、行く果ては抑うつ地獄ということになる。人生に喜びがなくなれば、人生の意味が問われる。意味をいくら観念的にでっち上げてみても、人生の喜びが取り戻されなければ、畢竟虚しさに回帰し、死の衝動が頭を持ち上げてくる。
エネルギー論的にみれば人生は、エネルギーのチャージ(興奮)→ディスチャージ(快楽)→さらなるチャージ(さらなる興奮)→さらなるディスチャージ(さらなる快楽)、という連鎖になる。そしてこのディスチャージング・プロセスを開くこと、下方へのエネルギーの回路を開くことこそグラウンディング・ワークに他ならない。具体的には、「地に足をつける」、「大地に根づく」、「固い基盤に人を降ろす」、「地面との感情的ないしエネルギー的な接触を確立する」、「自分が何者であるか知っている」、「自分がどこに立っているか知っている」、「自己の存在の根本実在に触れること」、「現実に触れている」、「身体、セクシュアリティとつながっている」、「喜び、安心感とつながっている」、「肚が据わっている」、「人々とつながっている」(Lowen 1975,菅・国永 1994;233, Lowen 1972,中川・国永,1995;51, Lowen 1977,石川・野田 1985;12, Lowen 1990,村本・国永1994;153)、・・・などが言われている。人を足や脚の中に連れ戻すことによって、幻想から離れ、現実につながるということであろう。そして、幻想から現実への道こそ解放の道である。
付言しておけば、もちろんここではスピリチュアリティも現実である。ローエンは言う。「足が大地から離れると、スピリチュアリティは生命のない抽象になってしまう」(Lowen 1990,村本・国永1994;152)と。感情やスピリチュアリティの源である身体から分離するとき、スピリチュアリティも生きることの苦痛や空虚を防衛するたんなる幻想になる。幻想はいずれ壊れ、苦痛と空虚に回帰する。また、「セクシュアリティと切り離されたスピリチュアリティはただの抽象概念にすぎず、また、セクシュアリティもスピリチュアリティから分断されれば単なる肉体活動に過ぎない。」、「セクシュアルである以上にスピリチュアルになることはできない。」(Lowen 1990,村本・国永1994;152)とも言っている。ローエンは、スピリチュアリティとセクシュアリティを、スピリチュアリティと身体を二元論的に分断するよく見られる発想から免れている。「生は性にして聖なり」というが、「生」は「性」と「聖」を表裏とするコインのようなものかもしれない。
バイオシンセシス(生命の統合)
ライヒの性格分析的ヴェジット・セラピーの流れの中で、「バイオ=生命」の「シンセシス=統合」に向かったセラピーがボアデラによって1970年代初頭に創始された。
バイオシンセシスには、ライヒのセラピーを発展させた多様な流れが統合されている。バイオエナジェティックスのローエンとジョン・ピエラコス、バイオダイナミックスのゲルタ・ボイスン、身体プロセスの理論と実践を発展させたスタンレイ・ケラーマン、バイオシンセシスという言葉を最初に使った人物で胎児の研究に基づいて形態心理学を発展させたフランシス・モットー、モットーの研究を発展させたフランク・レイクなどがいる。ボアデラによれば、ここには三つの異なる伝統の統合があると言う。①リビドー・エネルギーの流れを重視するライヒからローエン、ボイスンへの流れ、②胎児期の体験を重視するランクからモットーへの流れ、③母子関係を重視するメラニー・クラインなど対象関係のセラピストからレイクへの流れである。また、基本的な科学的な構想は、ホログラフィ理論(ホロムーヴメント)や「不断の全体性」の概念で知られる物理学者のデヴィッド・ボーム、「形態形成場」や「形態共鳴」の概念で知られる発生学の研究者のルパート・シェルドレイクに基礎付けられていると言う。バイオシンセシスのスピリチュアルな基礎はロバート・ムーアによるところが大きいようだ(Boadella 1987,国永 2002;2-3)。
こうした背景から、バイオシンセシスは、胎児期・周産期心理学、身体心理学、トランスパーソナル心理学を含む「身体・深層心理志向のサイコセラピー」として位置づけられている(www.biosynthesis.org)。
センタリング・グラウンディング・フェイシング
バイオシンセシスのセラピーには、センタリング・グラウンディング・フェイシングという三つの基本モードがある。それらは発生学・胎生学に基礎付けられている。受精卵は細胞分裂を重ね、内胚葉・中胚葉・外胚葉に分化する。ボアデラは、これをエネルギー論的にとらえなおし、三つの基本的な生命エネルギーの流れを指摘し、これを「ライフ・ストリ-ム」と言っている。
内胚葉からは、胃・腸・膵臓・肝臓などの消化器と呼吸器が作られ、食物と酸素を摂取してエネルギーに作り変え、エネルギーをチャージする。これらの内臓諸器官は感情エネルギーの流れに関連している。中胚葉からは、骨、筋肉、心臓、血管などが作られる。これらは内臓で作られたエネルギーを全身に巡らせることや、エネルギーをディスチャージする筋肉運動にかかわっており、筋肉による運動エネルギーの流れに関連している。外胚葉からは、皮膚、神経系、感覚器が作られる。内界・外界と接触して情報を取り入れたり、取り入れた情報を処理したりすることにかかわっており、知覚、イメージ、思考エネルギーの流れに関連している。
身心=有機体が健全に機能しているとき、それらは十全に機能し、統合されている。胎児期・周産期、誕生後、その後の人生で過度のストレスに出会うことでこれらは鎧化し、内胚葉の鎧、中胚葉の鎧、外胚葉の鎧を形成し、各機能が障害され、全体としての統合が分断される。次に、各々の鎧化を形態学的な観点、身体の構造的な側面から見てみよう。
内胚葉の鎧化は、首の前部―喉と横隔膜で生じ、呼吸が抑制され、感情がブロックされる。身体は、頭と胸と腹部に分断され、全体としての統合性を失う。つまり、喉の鎧化によって内胚葉と外胚葉、感情と思考は分断され、横隔膜の鎧化によって内胚葉と中胚葉、感情と行動・動きが分断される。この鎧の解除、すなわち呼吸の解放、感情の解放のワークがセンタリングのワークである。頭と胸と腹部に分断された身心の全体性の回復のワークは、首の前部(喉)と後部、横隔膜の鎧を解除して各胚葉間に橋を掛けるという意味で、ブリッジ・ワークと言われている。ブリッジ・ワークによって三つの胚葉は統合される。
中胚葉の鎧化は、筋肉の過緊張と過弛緩としてあらわれ、緊張と弛緩のバランスが失われる。とりわけ、首の後部の鎧化は外胚葉と中胚葉、思考と行動・動きを分断する。筋肉の鎧の解除、適切な筋肉の緊張状態を作り出すワークがグラウンディングのワークである。ローエンにあっては、「地に足をつける」ということが重視されていたが、「適切な筋肉の緊張状態」とすることで、たとえば、水泳のときのグラウンディング、睡眠のときのグラウンディング、等々様々な状況におけるグラウンディングを見ていくことができる。またボアデラは、幼児からの身心の発達に対応し、動きの領域を、屈曲(flexion)―伸展extension)、引き付け(traction)―押し出し(opposition)、回旋(rotation)―直線化(canalization)、吸収(absorption)―活動化(activation)という四対の対極の動きと脈動(pulsation)を合わせて「モーター・フィールド」と呼び、身体の動きを体系的に整理し、動きの鎧化を解除するワークの基礎としている。
外胚葉の鎧化は、感覚・知覚の鎧化、イメージの鎧化、思考の鎧化、言葉の鎧化などがある。それぞれ、過多であるか、過少であるか、固定化されている。(注③)感覚・知覚の鎧化は感受性の過多と過少、特定の感覚・知覚への固定化としてあらわれる。過度に敏感な人は、境界が過度に弱く、小さなストレスも大きく感じてしまう。逆に過度に鈍感な人は、境界が過度に強く、見れども見えず、聞けども聞こえずで、多くの現実を体験から締め出してしまう。イメージの鎧化は、イメージの世界に耽っていたり、逆に遮断していたり、特定のイメージへの固着として現れる。思考の鎧化は、思考の世界に耽っていたり、逆に思考が散漫になっていたり、特定の思考に固着しドグマに陥る。言葉の鎧化は、饒舌になったり、逆に寡黙になったり、言葉から感情が排除されたり、言語表現がワンパターン化されたりする。これらの鎧の解除は、アイ・コンタクト、声のコンタクト、言語と知覚を感覚と統合するフェイシングのワークと、現実に直面することで現実的な体験を形成すること(シェイピングのワーク)によってなされる。
ライヒの性格分析的ベジェット・セラピーは、心と身体をつなぐ自律神経に着目して、感情、筋肉、思考にたいしてそれぞれのワークをしてきたが、バイオシンセシスに至って発生学・胎生学・形態学によってこれらは身体に明確に基礎づけられた(Boadella 1987,国永,本田,光岡1995,1997,Boadella 1988,国永)。
ライフ・フィールド
バイオシンセシスは、ライヒの人格の三層の理論と胎生学に基礎づけて、人間の体験領域(ライフ・フィールド)を七つに分類し、それに基づいてセラピーの七つの基本的な領域と方法を提起し、身心統合セラピーの、更に身心超越のホリスティックな視座を提供している。(図③、注④)
まず、ライヒの人格の三層の理論について述べておこう。ライヒは、人格の中心に第一次層として、愛、基本的信頼などの「核(コア)」を想定する。この第一次層の欲求が充足されないとき、激怒、不安、絶望、悲しみなどのつらい感情の層、苦痛の層が第二次層として形成される。そしてそれを抑制し保護するために一番表面に第三次層として「マスク」と呼ばれる層が形成される。これは、自分を守るために身に着けた偽りの自己であり、自我防衛の層であり、鎧の層である。これは性格防衛の層でもあれば、筋防衛の層でもある(Boadella 1987,国永2002)。
バイオシンセシスは、体験と表現の分野を「閉鎖システム」(図3の外円)と「開放システム」(図3の中円)に大別している。ライヒの第二次層、第三次層が閉鎖システムにあたる。第一次層のコア(図3の中心円)がライフ・フィールド全体に生きられている領域が開放システムに当たる。開放システムは、第一次層のコアが十全に展開・発露できるオーガナイジング・フィールドがあるとき、有機的に結びついた六つの領域として現実化する。セラピーは、セラピストがレゾナンス(身心共鳴)によってオーガナイジング・フィールドを形成し、この閉鎖システムに働きかけ、開放システムの形成に向かう。その際、次の七つの領域が提起されている(図③の番号に対応)。
① 運動性のワーク(筋肉の緊張状態と動きに着目し、筋肉のチャージ過多と過少に働きかけ、自然な動きの衝動(natural movement impulse)を取り戻す)。
② エナジェティック・ワーク(呼吸のリズムに着目し、過度にコントロールされた呼吸、または無秩序な呼吸に働きかけ、センタリングの取れた呼吸のリズムを取り戻す)。
③ 関係性のワーク(関係行動に着目し、侵入あるいは剥奪のパターンに働きかけ、出会いと対話の関係性を形成する)。
④ 情動の保持と解放のワーク(情動の抑制とアクティング・アウトに働きかけ、適切に情動を保持し、あるいは表現することを可能にする)
⑤ 言語的コミュニケーションのワーク(防衛的あるいは混乱した話し方に働きかけ、明晰で整合した話し方を可能にする)。
⑥ イメージの解放のワーク(ヴィジョンを制限する限定された観念・認識やイメージに働きかけ、制限的なイメージを創造的なイメージに変容する)。
⑦ トランスパーソナル・ワーク(瞑想による中核のエッセンスとの結合。微細体のワークにより統一意識への道を開く)。
これらは更に以下の三つのゾーンに分けられる。①+②が下部のコネクション・ゾーン(身体的・エネルギー的ゾーンで、自分自身とのつながりのゾーン)、③+④が中間のコンタクト・ゾーン(関係性と情動表現のゾーンで、他者とのつながりのゾーン)、⑤+⑥が上部のコンテキスト・ゾーン(体験の言語的・視覚的な枠組みのゾーンで、体験の文脈のゾーン)に対応している。実際のワークでは、最も容易に近づける領域がワーク・チャンネルとして使われ、このコネクション・コンタクト・コンテキストが常に考慮される。
また、偶数番号②④⑥は自分自身との関係の領域、奇数番号①③⑤は他者との関係の領域であり、両領域は相互に影響しあいながら中核を取り囲んでいる。中核の⑦はコア・セルフ(エッセンス)でトランスパーソナル・セルフである。コアは、内なる強さと滋養の源で、身体的・心理的・精神的な癒しの原点であり、インナー・グラウンドである。このコアにグラウンディングする、いわゆる、インナー・グラウンディングには以下の三つの道がある。
① 深い情動の浄化のプロセスとしての「腹の道(way of the belly)」(変換―トランスミューテーション)。
② 日常生活の中で内なる本質的な部分を表現する「心臓の道(way of the heart)」(変容―トランスフォーメーション)。
③ 自己同一性感覚を流動化し、透過性のある状態にする「気づきの道(way of the awareness)」(超越―トランセンデンス)。
それぞれの道はまた一つの道でもある。時には多元性において、時には一元性において道は歩まれる(www.biosynthesis.org)。
3 おわりに
ウィルバー、ライヒ、ローエン、そして今日最先端を走っていると思われるボアデラのバイオシンセシスから、身体を射程に入れた心理臨床を確立していくための礎石を拾い上げていく作業をしてきたが、バイオシンセシスについて四点補っておきたい。
① 心理臨床で「ラポール」ということが言われるが、バイオシンセシスでは、ライヒの「自律神経的同一化」、ケラーマンの「身体共鳴」にみられるような生物的なラポールを「レゾナンス」として重要視し、身体・心理・精神の再統合化の形成プロセスが起きるオーガナイジング・フィールドとみなしている。
② ワークにおいては常にポラリティ(両極性)が注目され、その統合がワークされる。
③ ライヒの七つの鎧部位(眼部・口唇部・頚部・胸部・横隔膜・腹部・骨盤部)と七つのチャクラが関連づけられ、経絡理論におけるエネルギーの流れとセンタリング、グラウンディング、フェイシングの三原理が結合されている。
④ 後期ライヒはオルゴン・エネルギーを論じ、ローエンは「気」、「プラナ」について述べていたが、ボアデラは「エネルギー体」の存在を認め、「エネルギー・フィールド」、東洋的に言えば「気の場」とも言える領域をも射程に入れており、コア=エッセンスのワークにおいては微細体(サトル・ボディ)のワークが取り入れられている。
これらの詳細は別稿に譲って、最後に、まったく触れてこなかった社会的側面について一言触れて稿を閉じたい。ライヒは、『ファッシズムの大衆心理』を書き、性格分析においても、性においても人間の社会性を常に射程に入れていた。それは、エーリッヒ・フロムに、ヘルベルト・マルクーゼにと広く引き継がれていった。臨床でかかわる心も身体も共に社会化され、文化化された心であり身体である。この点を見逃してしまい、社会・文化の檻が織り込まれた心と身体をあたかもその檻がないかのように扱うとすれば、心理臨床は檻の中のマスターベーションになりかねない。性格と身体の鎧の只中に社会・文化を対自化し、臨床の中で社会的存在としての自己にも目覚め、単なる自己の創造者のみならず、社会・文化と自然環境の創造者としての自己にも目覚めていかなければ、自らを疎外した社会的枠組みを無自覚に肯定してしまうことになる。心理臨床が身体をも視野に入れようとするなら、それは同時にウィルバーの言葉を借りれば「生物社会的帯域」、社会・文化も視野に入れなければならないだろう。
(小原 仁)
注
①「身心統合セラピー」という表記は一般的ではなく、通常「ボディサイコセラピー」
あるいは「身体心理療法」と表記されるが、筆者の思いを込めてこのような表記に
させていただいた。
②以下、参考にした主要な文献を挙げておく。
・Boadella D(1987) Life Stream―An Introduction to Biosynthesis
(国永史子,本田延子,光岡征夫訳 ライフ・ストリーム、バイオシンセシス・ジャーナル1号
(1995)、2号(1997) バイオシンセシス研究センター)
・BoadellaD(1987) Biosynthesis(国永史子訳(2002)
バイオシンセシス.バイオシンセシス研究センター資料
・Boadella D(1988) Biosynthesis(国永史子訳 バイオシンセシス (1),(2)
バイオエネルギー・ジャーナル 10号、11号 バイオエネルギー研究センター)
・Frager R,Fadiman J(1984) Personality And Personal Growth (吉福伸逸監訳(1991)
自己成長の基礎知識(2)身体・意識・行動・人間性の心理学 春秋社)
・Reich W(1933) Charakter‐analyse.(小此木圭吾訳(1966) 性格分析 岩崎学術出版社)
・Reich W(1942) The Function of the Orgasm―Sex‐Economic Problems of
Biological Energy.(渡辺武達訳(1973) オルガスムスの機能 W・ライヒ著作集・1太平出版社)
・Sharaf M(1983) Fury on Earth : A Biography of Wilhelm Reich.
(村本詔司・国永史子訳(1996)ウィルヘルム・ライヒ(上)生涯と業績、
(下)生涯と業績 新水社)
*本書には、ライヒの著作と関連文献が網羅されている。
注記していない参考文献は全てここに紹介されている。
・Wilber K(1977) The Spectrum of Consciousness.
(吉福伸逸・菅靖彦訳(1985) 意識のスペクトル(1)意識の進化,(2)意識の深化 春秋社)
・Wilber K(1979) No Boundary.
(吉福伸逸訳(1986) 無境界―自己成長のセラピー論 平河出版社)
③ここで「固定化」というのは私の見解であって、ボアデラの確認は取っていない。
④この図は、下記のパンフレット、ウエブサイトから作成したものである。
・Boadella D & Boadella S Biosynthesis ― Somatic and depth-psychology oriented
psychotherapy. International Institute for Biosynthesis IIBS.
・ウエブサイト www.biosynthesis.org
・なお、後日バイオシンセシス・インターナショナル・トレーナーであるリアニ・ズィンク
(Liane Zink)より図の③と④が現在入れ替わっていると聞いたが、
本論ではボアデラの確認が今だ取れていないので上記資料のままにしておいた。
また、内容的に疑問点もあるのだが、今回は論点の整理にとどめておいた。
引用文献
・Lowen A (1972) Depression And The Body (中川吉晴・国永史子訳(1995)
甦る生命エネ ルギー 春秋社)
・Lowen A (1975) Bioenergetics (菅靖彦・国永史子訳(1994)
バイオエナジェティックス ー原理と実践 春秋社)
・Lowen A, Lowen L(1977) The Way To Vibrant Health (石川中・野田雄三訳(1985)
バイオエナジェティックス―心身の健康体操 思索社)
・Lowen A (1990) The Spirituality of The Body (村本詔司・国永史子訳(1994)
からだのスピリチュアリティ 春秋社)